「あなたも保育者になれる」
あなたも保育者になれる: 子どもの心に耳をすますための22のヒント (教育単行本)
- 作者: 青山誠
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2017/04/03
- メディア: 単行本
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以前からずっと、保育に携わるうえでのバイブル的なものを探していたが、このたびやっと見つけた。
「りんごの木」保育園の保育者、あおくん先生が執筆した、
「あなたも保育者になれる」
だ。
今までどんな本も、ある部分は納得がいくけれど、ある部分では賛同できない、あるいはそう上手く実践できない、といったような本が殆どだったが、この本は、端から端まで保育のポイントが簡潔に分かりやすくまとめられているので、いつ見返しても内容がすとんと心の中に入ってくる。
あおくん先生の独特な言葉遣いもまた素晴らしい。
子どもたちの言葉にならない感情や、ふとした様子を、あおくん先生の言葉でうまく表現されているので、保育がとても身近に感じられる。
改めて、保育とは、大人側が指導するものではなく、子どもの世界にふわっと足を踏み入れて、子どもが成長するためのお手伝いをする仕事なんだな、と思い至る。
子どもにとってとても大切なことは、自分を表現すること。感情を吐ききること。
それが心身ともに健全な成長につながっていく。
「りんごの木」では、それが存分に叶う場所だから、ここの子どもたちはみんなすくすく育つだろうと思った。
こういう園がどんどん増えていくといいな。
そして、わたしもできる限りこのような保育を心がけていきたいと強く思った。
あおくん先生が言うように、わたしも、粘り強く、ぬけぬけと、社会の土壌を耕すミミズのような存在にならなくては・・・。
今はまだ果てしなすぎて、目指す天辺も見えないほどだけれど。
保育と子守り
年度が切り替わって、一時保育のお部屋にも新しい子どもがたくさん増えた。
最初から何事もなかったかのように皆に交わって遊び出す子もいれば、部屋に入ってお母さんの腕から離れた途端に号泣で、一日中泣きながら過ごす子もいる。
一時保育は、毎日通う子どもばかりではないので、毎日毎日違う風景が広がる。
そんな中でも、一日中泣き叫ぶ子を見るのはやっぱり辛い。
なんとかしてなだめようとして躍起になるけれども、そんなことはまったく耳に入りません、というような感じで、ただ、自分の置かれた状況に対して全身で表す拒絶反応。
ある意味もっともなことだ。
そういう時はさすがに「可愛い」と思う気持ちは吹っ飛び、自分の立場も忘れて、思わずお迎えの時間ばかり気になってしまう。
何人もがギャンギャン泣く部屋に長時間いることの辛さは、出口のない部屋に閉じ込められたかのよう。
そう、もう思考停止の無になるしかない。
そんな日々が続いていた時に、園長がぽつりと呟いた。
「これじゃあ保育じゃないよね。ただの子守りだわ」
保育経験の浅いわたしには、その言葉の意味が最初ピンとこなかった。
その2つの言葉の差は何だろう・・・?
それから何日か考えて、自分なりの答えのようなものが出た。
子守りは、ただお母さんのいない間に子どもを預かるっていうだけのことだけど、保育というものは、子どもと共に過ごし、その心身の成長を見守りサポートすることなんだな、と。
同じようで確かにまったく意味が違う。
わたしは保育者になれるだろうか。
まだまだ先は見えそうもない。
子どもにとっての遊びとは?
子どもにとって欠かせないもの。
それは遊び。
放っておいてもすぐに子どもは何かを見つけて遊び出す。
保育者がわざわざ何かを提供しなくても、子どもは自分に合った遊びを次から次へと生み出していく。
子どもにとって遊びとは、生活することそのものだ。
遊ばない子どもなんていない。
大人も遊ぶけれど、子どもほど夢中になって遊び続けることはそうそうない。
それを見て思った。
子どもは、生きていくために、成長していくために、自分に必要な遊びを取り込んでいっているんじゃないかと。
自分の子どもを見ていても、既製のおもちゃよりも、どちらかと言うと、ただのプラスチックとか、ただのペットボトルとか、そこら辺に落ちている紙とか石とか、
「それおもちゃじゃないんですけど?」
というようなもので何分も集中して遊んでいたりする。
それはつまり、想像力が湧くからじゃないかと。
その想像する力(もしくは創造する力)は、脳の発達にきわめて必要なものだ。
子どもは遊びながら、きっと自分で自分を成長させていっているんではないかな。
既製のおもちゃがすぐ飽きてしまうのもそういうことだ。
ワンパターンで、なかなか想像力や創造力が育まれないから。
なんとない紙と鉛筆、粘土、積み木なんかは、そういう意味では本当に優れたおもちゃなのかも。
そう思うと、意味がないように見えても、子どもの遊びはできるだけ存分にさせてあげなくては、という気になる。
たとえ部屋中散らかろうとも、大人は子どもの邪魔をしてはいけないのである。
彼らは天才の種を撒き散らしているのかもしれないのだから・・・
(ちょっと大袈裟?)
何にせよ、先日、発達支援教室に見学に行った際にも、何をしているのかと思いきや、やっぱりここでも子どもを遊ばせることがメインだったので驚いた。
もっと特殊な教育でもしてるのかな、と思っていたから。
でもよくよく聞いてみると、
「療育とは遊び。本人が楽しくて仕方がないことをやること」
というようなことをおっしゃっていたので、まさに!と思った。
子どもにとって遊びとは、生きることそのものだ。
舐めちゃいけない。
池上彰さんだって、小さい頃は、とにかく外で遊び倒していたそうなのだから・・・
今の流れである早期教育というより以前に、子どもにはもっともっと、五感をフル回転できるような遊びをたくさん経験させてあげたいなと思う。
発達障害について思うこと
保育園で勤務していると、多様な発達障害児と言われている子に出くわす。
今ではもうそれに慣れてきてしまって、
「あの子のああいうところ、もしかしたらグレーかも」
とか、わたしの中途半端な知識でも、子どもを分類し出していることに気づいて、
「いやいや、ちょっと待て〜!」
と、自分にブレーキをかけた。
発達障害児というだけで、勝手にフィルターをかけ、その子とそれ以外の子を区別することに慣れてきてしまっている自分が恐ろしかった。
個性を大事に、その子に合った接し方を自然と見いだしていたはずなのに。
障害児と認識してしまうことで、余計な知識なんかが脳を支配して、
「こんな時はどう接すればいいのだろう?」
と頭で考えてからじゃないと行動できなくなってきている。
これって危険なことなんじゃないだろうか?
つまり、障害児というだけで、その子にフィルターがかかり、大事何かを見失ってしまうのが恐いと思ったのだ。
大事な何か、とは、敢えて言葉にするならば、その子の持つ長所とか、可愛さ、その子の放つ輝きなどと言い換えられるかもしれない。
保育園という空間に馴染むのはいいけれど、わたしは実は、保育業界にどっぷりと浸かりたくない。
思いっきり保育業界に染まっていない素人だからこそ、感じたり見えてくるような部分を大事にしたいと思っている
つまり、
「結局のところ、それがどうなの?」
ということが言いたいのかもしれない。
発達障害、発達障害と盛んに言われている昨今だが、障害といったからといって、すぐに線引きしたりすることをせずに、一緒に関わっていく生活をしたいのかもしれない。
インクルーシブとでも言うのだろうか。
そのために職員を多く配置しなくてはいけないことも分かっている。
でも、少子高齢化のこの時代なのだから、本来は、子どもに対してもっと手厚くできるはずなんじゃないかな。
子どもだけじゃなく、大人の障がいを抱えている人たちに対しても、もっともっと多様性を受け入れる、寛容性のある社会になって欲しい。
少なくともわたしはそういう立ち位置でありたい。
新入園児
どこの保育園も同じだと思うが、我が保育園も、新入園児が朝からギャンギャン泣いている。
その中でも、ひときわ泣いて泣いて・・・泣きすぎて死んじゃうんじゃないかと思う小さな0歳児が昨日いた。
抱っこにおんぶに、揺らしたりあやしたり、抱っこ紐を駆使したりして、1時間の泣きと嗚咽の後、ようやくピタリと寝た。
きっとここがどこで、自分が誰かも分かっていないんだろうなぁ・・・。
一方、人見知りで、一日中ふえんふえんと泣いている1歳児の新入園児もいる。
ずっと一緒だったお母さんから離れて、知らない人たちに囲まれて、訳の分からない状況だよね。
それでも保育士はずっと抱っこやおんぶしながら、雑務もこなしながら1日を過ごす。
1〜2ヶ月もすれば、どんな子でも慣れてくるのを知っているから、みんな平気である。
今はみんなにとって頑張り時。
お母さんたちも、もちろん頑張り時。
色んな経験が子どもを育ててくれるのだから、お母さんたちも、我が子を預けることに引け目を感じずに、堂々と預けて欲しい。
みんなの保育園生活が楽しいものになりますように。
女だらけの職場
余裕がない話
あるお母さんが、登園前に子どもを叩いたという話をしているのを聞いてしまった。
ぐずぐずして、ちっとも朝の支度をしなくて、イライラしてバンっとやってしまったと。
その気持ちは、すごく良く分かる。分かりすぎるけれども、それを普通は人に話さないような気がする。
でも、保育者にペラペラと話してしまうということは、お母さんは、相当精神が参っているのかもしれないと思った。
お母さんは笑いながら言っていたけど、保育者は、軽く受け止めずに、できる限りのサポートをしないといけないと思う。
今、子育て相談機関が増えたとは言え、わざわざ出向くようなことは稀で、よっぽどのことがない限り話をしに行くことはまずないと思う。お母さんたちは忙しいし…。
やっぱり、いつも顔を合わせている保育者が、一番言いやすいのではないかと思う。
だからこそ、保育者は色んなサインを見逃さないようにしなければならない。
家庭の問題の鍵を握っているのは、やっぱりお母さんだ。
お母さんが心の余裕がないことで、子どもに怒りのベクトルが向きがちになる。
いくら育てにくい子どもだって、どのお母さんも、本当は、せっかく産んだ我が子と、笑って過ごしたいはず。
だから、お母さんのサポートはとても大切。
お母さんが笑っていれば、きっと家族のみんなが笑顔になる。
お母さんは子どもと触れ合うことを中心にして、他のことはみんな周囲がサポートできるような世の中になればいいなぁと思う。
超極端なことを言えば、家事はお母さんがやるべきではないかもしれない。
昔のように、お手伝いさんがいるような暮らしだと、いいのかなぁ…なんて、ぼんやり思う。