保育と療育
わたしは今、保育と療育の、両方の職場で働いている。
最初は療育の現場で、右も左も良く分からずに無我夢中でやっていたけど、最近、ようやく両者の違いがなんとなく理解できるようになった。
それまでは正直、療育といっても、ただ、カリキュラムに沿って遊んでいるだけでは?
というような、素人まるだしの感想だったのだけれど、本当は、その遊びの中にも、さまざまな意図があり、その子独自に組まれた計画の中で行われているのだと気づいた。
療育は、遊びや様々な経験の中で、その子が苦手とすること、伸び代が期待できるようなことをサポートして、社会で生きる力や、達成感などを獲得させていくことであり、保育とは主旨が異なっている。
まぁ、当然のことだけれど。。
なので、同じような状況でも、保育と療育とのアプローチでは全然異なる対処も良くある。
例えば、読み聞かせの最中に誰かが立ち歩いたとしても、保育ならば、口頭で注意するとか、保育者がついて安全が確保できるように見守るとか、「どうしたの?」という声がけをするといった、割とソフトなアプローチが主流だけれど、療育であれば、その子が座るまで根気良く促すとか、必要であれば身体を運んでくるとか動かないように支えるといったことも必要になってくる。
できたらその分大いに褒めるというのも、どちらかと言えば療育のあり方だろうと思う。
子どもたちは、本当に、周りの環境によって変わってくる。
療育で、適切な行動をなるべく小さなうちから習得すると、就学に向けて大きな差が出てくるというのは、障害児のみならず、多くの子どもに当てはまることだと思う。
子どもはそもそも、成長したがっている。
色んな遊びを通して、発達を自ら促しているというのも、良く知られていることだと思う。
療育は、成長する可能性を無限に持っている子どもにとって早い方が良い、ということをもっと知られれば、受給者証をもらうのをためらう親ももっと減ってくるだろう。
療育を、習い事のように捉えれば、ハードルも下がるかもしれない。
実際、そのようなものであるし。
療育で、様々な経験を与えられて、できることが少しずつ増えていっている子どもたちを見ると、やっぱり嬉しいし、今となってはわたしも、自分の子どもを未就学のうちに療育に通わせておけば良かったと思っているくらいだ。
保育と療育。
どちらも、子どもたちが、社会で皆に愛されて生きていくために、また、自己肯定感を持てるようになるために必要なものであり、できる限りそのような場所を提供していくのが大人の大切な役割の一つなのだと思う。
つまらない。
特にクラスに付いていない非常勤の私は、最近は年長クラスに良く入らせてもらっている。
しかし、この年長クラス。
やることがいつもワンパターンで、非常につまらない。
晴れている日は必ずお散歩。
今月から、やっと水遊びもし始めたが、それまでは、晴れていると毎日どこかの公園にお散歩で、正直うんざりだった。
どうやら、晴れ=公園に行くということしか選択肢はないようである。
もちろん幼児にとって外遊びは重要。
外遊びの色んな要素が発達を促すことも承知だ。
しかしそこで、特に何をするというわけではなく、基本は自由遊び。
職員は基本は立って見ているだけ。
呼ばれたら一緒に遊ぶが、積極的ではなく、たまに手助けにいくくらい。
子どもはそれぞれ、いつも同じようなことしか選ばず、遊具で遊ぶ子は遊具で、追いかけっこをする子はいつもそれ、職員と遊ぶ子も大体決まっている。
毎日毎日こんな風景を見て、わたしはパニック寸前。
私は何より同じことをするのが大嫌いなので、これはなんだか拷問でしかなかった。
(これはわたしの特性の問題であるというだけなんだけど)
でも、もしかしたらわたしと同じような子も、ひょっとしているかもしれない。
もう少し、毎日違う刺激を取り入れた方がいいと考えてしまうのは、私が飽きっぽい人間だから、というだけ?
子どもたちは、晴れていたらとりあえず、外で遊びたいと思うものなのだろうか?
そんなことを考えながら、しばらく悶々としている。
わたしの希望はと言えば、リトミックを入れたり、地域交流を入れたり、アートや造形を入れたり、少しお勉強的な要素を取り入れたりするといいと、稚拙な頭ではあるが考えている。
職員がつまらないと、きっと子どもたちもつまらないに違いない。
保育が急に色褪せて思える今日この頃。
資格のない保育者
職場に、無資格だが、保育に興味があって・・・、という若い女性職員が入ってきた。
とても感じが良かったということで雇われたが、この女性が、本当に良くできるということで評判になっている。
保育を基本的に理解し、仕事を覚えるのも早く、子どもたちにもすぐに懐かれ、周りの同僚や先輩保育士たちからも、厚く信頼を置かれている。
入って3年目になるわたしも、彼女には驚嘆してしまった。
彼女には子どもがまだいなく、どこで覚えたわけでもないのに、泣いてる子を上手にあやし、気をそらせ、いつも楽しい方向に持っていける。
子どもたちと接する時は、本当に楽しそうに遊ぶ。
それを見ながら、わたしが子どもであっても、長年いるどんな保育士よりも彼女のところへ向かってしまうだろうなぁ・・・と思ってしまった。
何より、どんな子でも受け止めるよ、という、その笑顔。
何をしてもいいんだよ、という、その安心感。
保育者にとって一番大切なのは、きっとそこなんだろうなぁ…という気がしてならない。
保育の業務は長年やれば、最低限のことはできるようになる。
事務作業や制作なんかも同じ。
でも、人格という点を取ってみれば、人は一人一人やっぱり違っていて、だからこそ、人間関係の合う合わないもあり、そこで、保育者はその力量を問われる。
保育者はつまり、資格のあるなしに関わらず、その人格が大きく影響する職業なのだ。
わたしもその域を目指せるか?
まだまだ道は長い。
ちゃんと知りたい!子どもの発達障害
少し前のことだが、5月26日に放送された、「ちゃんと知りたい!子どもの発達障害 すくすく子育て×ウワサの保護者会 コラボスペシャル」を観た。
内容は盛りだくさんだったが、本当に分かりやすく、発達障害とはどういうものか、その分類、特性、困り事、就学時の進路の問題など、実際に悩んでおられる親御さんの目線で展開していく構成がとても良かったと思う。
特に、我が子に障害があるかもしれないという壁にぶち当たったお母さんが、子どもが謝る目の前で、「もうムリ」と泣いてしまったと言う場面では、その絶望感がとても良く伝わってきて、わたしも思わずもらい泣き。
でもそこから、色んな福祉のサポートがあることを知り、困った時は、頼れるところがあるということ、母親一人で全ての責任を負わなくても良いことなど知っていったとのこと。
その他のお母さんたちも、悩み抜いた経験からみんなパワフルで、寛容で、自分の子どもだけではなく、どの子も大切で、困っている子みんなの力になりたいというメッセージが言葉の端々から溢れていた。
自分の子に障害があるとなると、親はみんな追い詰められるだろう。
周囲の目、家族からの叱責や、安心できる居場所がないなど、本当に想像を絶する困難の連続だろうと思う。
それでもこんなに明るく、希望を持って話ができるお母さんたちを、心から尊敬してしまった。
そして、番組でも言われていたが、こういうお母さんたち、お父さんたちが増えていき、声を上げていくことで、もしかしたら少しずつ、世の中が変わっていくかもしれないな、と思った。
「みんなの学校」の、大空小学校のように全面的ではないけど、インクルーシブ教育が、近いうちにもっと普及していくと良いと、わたしなんかは思う。
特別支援学校や特別支援学級なども、今はまだまだ数が少ないけれど、どこの学校でも、どこのクラスに入っても、そういうところと同様、みんなが均等に学べる機会が、もしかしたらできてくるかもしれない。
実際、うちの子の学校には、学校サポーターがついて下さっているのを最近知り、実際に、子どもたちを満遍なく見て下さっているのを初めて見た時には感動した。
まさに理想の環境。
うちの子も何度か助けを求めて、その度にマンツーマンで教えてもらっていた。
「一人一人、みんな違ってみんないい」
という言葉どおり、個性を尊重し合える世の中にもっともっとなっていって欲しい。
学校教育が、画一的ではなく、一人一人に寄り添った指導へと方向転換していって欲しい。
そのためには、目の前の人を、
「あなたのことが知りたいよ」
と、いう気持ち。
番組でも出ていたが、その姿勢を、わたしも保育者として、常に心に留めていきたいと思う。
ムカつく職員。
職場に本当にムカつく職員がいる。
すぐに子どもの文句を言う。
「この子はこれができない。あれができない。遊べない。寝ない。食べない。」
それがどうした?
「休憩が回らない。やること多すぎ。あそこの母親はちゃんとしてない。あの子は本当に迷惑」
などと、子どもの目の前でも平気で言う。
耳を疑った。
しかも、一時預かりの子どものことは、「これ」「こいつ」呼ばわり。
本当にどうかしてる。
何か言いたい。めちゃくちゃ文句言いたい。
けど、それが勤続10年の保育士だという事実…。
入って3年目のわたしには、悔しいけれど何も言えない。
そして彼女も、わたしのような新人の前でしか、そういうことを言わない。
子どもだから何も気にしないなんて、どうして思えるんだろう。
子どもだからこそ、大人よりも敏感なのに。
そんな職員のところに預けられて、子どもが本当に可哀想。
少しヘルプで入った時、一時預かりの2歳の女の子が、呟いた。
「お母さんに会いたい」
そりゃあ、そうだよね…。
一緒に、少しの時間遊んで、やっと笑顔が見られるようになったな、と思ったけど、わたしはクラスを抜けなくてはいけない時間になった。
寡黙だけど、何でも良く分かっているその子は、その後も不安になって何度も泣いていた。
悲しいけれど、園に対する不信感は、余程のことがない限り、消えていかないだろうと思う。
本当に、なんであんなのが保育士なのか?
タスクをこなすことだけが仕事ではない。
子どもはモノじゃない。
こんな風に、色んな保育士がいるからこそ、保育士は誰でもなれると思われているし、保育業界はナメられている。
受給者証
保育園に通っている子が、発達に偏りがあり、支援が必要とされる時、そういった専門の施設に行く時にまず必要なのが、受給者証である。
言い換えれば、受給者証がなければ、発達支援施設に通うことができない。
しかし、この受給者証を取得するのにためらう親御さんが大半だ。
もちろんそうだと思う。
支援が必要なことは分かるが、その受給者証を取得するというその行為が、自分の子がまるで障害者であることを認めてしまうことになってしまいそうだから。
自分の子を障害者だと認めることに躊躇しない親はそんなにいないだろう。
困っているのは山々だが、障害児と認めたくはない。
その天秤で、迷うのが親心だと思う。
さらに、受給者証を取得するための書類として、医師の診断書や意見書等が必要となれば、事は更に重大だ。
その行為そのものが、とてもハードルが高く思えてしまう。
だから、その手前で踏みとどまっている親子はたくさんいる。
職員としては、その気持ちが良く分かるので、例えその子に支援が必要だと明らかに分かっても、そんなに強く勧められない。
ひとつ言えるのは、受給者証を取得したからと言って、いきなりその子が障害児扱いになるわけではない。
似たようなもので最たるものに、「療育手帳」があるが、これは障害児を証明する時に使うものであり、「受給者証」は、決してその役割を担わない。
あくまで「受給者証」は、療育施設に通うための入場券と考えれば、少しは考え方が変わるかもしれない。
実際、通ってみて、本当に良かった、というのがほとんどの親御さんの意見であり、多少の差はあれ、基本的には子どものためになっているのだから、もちろん通った方がいいのは事実で、しかも、早くからそういったところに通う子どもほど、成果が見えるのも否めない。
だから、保育園側としては早くからの支援を求めるが、保護者側としては、なるべく自然と成長する方を期待しているために、通わせるのが遅くなり、ここでも噛み合わないということになる。
そんなことを職員同士で話していたのだけれど、誰かが、「子どもができたら、母子手帳とセットにして、最初からみんなに受給者証を配布しておけばいいのにね」ということを言い出し、それは本当にそうだなと思った。
必要か必要でないかは後にして、とりあえず、いつでも受給者証を条件なく使えるとなれば、もっと気軽に発達のことを色んなところに相談できたり、それを使って療育に行けたりして、とても便利で心強いものに変化する。
療育に通うことが、とても自然なものになり、障害児と健常児、などそういった白黒付けるような見方も減っていくように思う。
国の制度がそのように変わらないかな、と、親の立場からも切望している。
その子にあった言い方
自閉症の子。
仮にA君とする。
A君「今日、公園に蜂いる?やだー」
わたし「蜂、いないよ〜」
A君「いやだ、蜂、いるー!」
わたし「いないよ~蜂」
A君「いるー!蜂、いるー!やだやだー!」
(暴れ出す)
わたし「ちょっと、蜂、いないってば~」
他の先生(B先生)「A君、どうしたの?」
A君「蜂いるー!蜂、恐い~!!」(泣く)
B先生「ねえ、A君、今日蜂さん、お家にいるんだって」
A君「…え?今日、蜂、お家にいる?」
B先生「うん」
A君「お家?お家で蜂、何してる?」
B先生「今日、蜂さんお家でテレビ観てるんだって」
A君「え?蜂、お家でテレビ観てる?」
B先生「うん。だから、A君大丈夫だよ」
A君「分かった」
(走り出し、公園で遊ぶ)
わたし(なるほど…)
・・・
この子には、可能な限り具体的に説明した方がいいんだ!と思った瞬間。