発達障害について思うこと
保育園で勤務していると、多様な発達障害児と言われている子に出くわす。
今ではもうそれに慣れてきてしまって、
「あの子のああいうところ、もしかしたらグレーかも」
とか、わたしの中途半端な知識でも、子どもを分類し出していることに気づいて、
「いやいや、ちょっと待て〜!」
と、自分にブレーキをかけた。
発達障害児というだけで、勝手にフィルターをかけ、その子とそれ以外の子を区別することに慣れてきてしまっている自分が恐ろしかった。
個性を大事に、その子に合った接し方を自然と見いだしていたはずなのに。
障害児と認識してしまうことで、余計な知識なんかが脳を支配して、
「こんな時はどう接すればいいのだろう?」
と頭で考えてからじゃないと行動できなくなってきている。
これって危険なことなんじゃないだろうか?
つまり、障害児というだけで、その子にフィルターがかかり、大事何かを見失ってしまうのが恐いと思ったのだ。
大事な何か、とは、敢えて言葉にするならば、その子の持つ長所とか、可愛さ、その子の放つ輝きなどと言い換えられるかもしれない。
保育園という空間に馴染むのはいいけれど、わたしは実は、保育業界にどっぷりと浸かりたくない。
思いっきり保育業界に染まっていない素人だからこそ、感じたり見えてくるような部分を大事にしたいと思っている
つまり、
「結局のところ、それがどうなの?」
ということが言いたいのかもしれない。
発達障害、発達障害と盛んに言われている昨今だが、障害といったからといって、すぐに線引きしたりすることをせずに、一緒に関わっていく生活をしたいのかもしれない。
インクルーシブとでも言うのだろうか。
そのために職員を多く配置しなくてはいけないことも分かっている。
でも、少子高齢化のこの時代なのだから、本来は、子どもに対してもっと手厚くできるはずなんじゃないかな。
子どもだけじゃなく、大人の障がいを抱えている人たちに対しても、もっともっと多様性を受け入れる、寛容性のある社会になって欲しい。
少なくともわたしはそういう立ち位置でありたい。